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トンネルを掘る男たちの記録文学『高熱隧道』

吉村昭『高熱隧道』(新潮文庫

 


こんな時代があったんだ、とただただ恐ろしく読んだ。これが昭和11年か、と。

黒部ダムの見学に行く前に読んでみようと手に取ったが、なんという自然の脅威。

人間の理解を越える自然の中に人が踏み入っていく困難さがよくわかる作品だった。

 

多くの犠牲者を出してでもトンネルを貫通しようとしたのは、国家事業だったからという理由だけではなかったということに恐ろしさを覚える。

惨憺たる現場で指揮をとった人達も、実際に掘り進めた人夫たちも、尋常ではない精神力だ。トンネル貫通という夢に取り憑かれていなければ、なし得なかった事業だと思う。

 

「鑿先を取る」ことの競争に勝つために、暑さや恐怖をものともせずに、掘り進めていく終盤。人夫たちの誇りや意地が原動力になって、トンネル掘りは行われていたのだということを痛烈に感じた。

 

人夫たちと技師

 

 多くの犠牲者が出て常識的には中止するべきトンネル掘り現場において、死に怯える人夫たちを動かせざるを得なかった技師たちに興味が湧く。

爆発事故で吹き飛んだ人夫たちの遺体を、誰も恐怖に慄いて、嫌悪して片づけれることができない。その時に技師の根津が一人で集め始めたことを振り返って、同じく技師の藤平はこう語っている。

 

「人夫たちの危うい感情を巧みに一変させた行為。それは、素朴な人夫たちの心理を知りつくした根津の演技だと言うのだろうか。」(111頁)

 

危ないトンネル掘りを強行させる技師たちへ不満や怒りを抱かせないために、根津は皆が避けて近づかない人夫たちの遺体を片付けている。本心では根津も、他の者と同様に嫌悪感を抱いていたであろうから。

だが根津が率先して動いたおかげで、実際、人夫たちは技師たちに反発や怒りをぶつけることはなかった。

人夫は「自分たちの仲間を蔑ろにしない技師」だと認めたのだから、根津の行動は「演技」であろうとなかろうと意味のあることだった。

 

藤平の人夫たちに対する感情

 

自然発火しないように改良したダイナマイトを装填をさせようとしても、前回の爆発事故を思い出し、人夫たちは怖がって切端に近づこうとしない。

そんな時に、考案したのは自分だからと言って、藤平は自らダイナマイト装填を申し出る。

 

藤平は、ふと、自分の行為は血に汚れながら人夫たちの肉塊を抱いていた根津と同じ類のものなのだろうか、という考えが、胸の中のかすかな羞恥心とともにかすめすぎるのを意識した。が、藤平は、作為は全くないのだとしきりに自分自身に弁明した。(119頁)

 

自分の行動も根津と同じ「演技」なのだろうか、と思案する藤平。しかし、人夫たちの恐怖心を拭い去るために、率先して安全であることを立証する技師像を演じようとしたものではないと弁明する。

指示をする者として、ただトンネルを貫通させるために、この困難を乗り越えなければならないという一心なのかもしれない。

それでも、藤平の心には何かひっかかる物があった。

 

藤平の胸に、沈鬱な気分がひろがる。それは、かれら人夫たちの素朴な沈黙に対する後暗さに似た感情であった。(131頁) 

 

 技師に意見を言うということを発想しない人夫のことを、藤平は立場を越えて慮ろうとしている。

犠牲を覚悟しなければならない事業においても、藤平は人夫に対する憐みをかき消すことはできなかった。

しかしトンネル貫通のために憐みなどは捨てなければならない、とその思いに蓋をするように現場で指揮を執るのだった。

この状況下で人の上に立つというのは、どれだけ恐ろしいことであろう。たくさんの犠牲者を出して、どれだけ歯がゆい思いをしただろう。

それでもトンネルを貫通させたい。どこか狂気にも似た願望が、藤平を突き動かしていった。

 

こうしたトンネルの成り立ちを知ると、多くの人の血と汗で作られた構造物の恩恵を受けながら、背景を知らずに生きてきたことが恥ずかしくなった。